【浄土真宗】西本願寺と東本願寺って何が違うの?

【浄土真宗】西本願寺と東本願寺って何が違うの?

 

いつから東西に分かれたの?何があったの?そんな疑問を解消していきます。

西本願寺東本願寺という名前はよく聞くけど、違いはよく分からない。そんな人も多いのではないでしょうか。

東西分裂の原因を知る為に、歴史をさかのぼってみたいと思います。

 

正式名称

 

西本願寺→浄土真宗本願寺派

東本願寺→真宗大谷派

2つとも京都に本山を構える、浄土真宗のお寺です。

 

お寺の始まり

 

お寺の始まりは大谷本廟と呼ばれる親鸞のお墓でした。

親鸞とは浄土真宗を開いたお坊さんなので、東と西どちらにも最も重要な人物です。

1321年、大谷廟堂から本願寺という名前にかわり、お墓からお寺になりました。

この時は本願寺という1つのお寺でしたが、後に西と東に分かれていきます。

 

石山戦争

 

東西分裂の原因を知るために、戦国時代までさかのぼります。

1570年〜1580年、本願寺は織田信長と戦っていました。これを石山戦争と言います。

僧侶や民衆で構成される本願寺 vs 戦国武将の織田信長

普通に考えると信長が一瞬で勝利しそうですが、戦いは10年も続きました。

その秘密は、当時本願寺があった石山の地形と、毛利輝元という人物にあります。

石山という土地は、海に面していて陸からは攻めにくい形をしていました。逆に言えば、海から攻めるには最適の場所でした。

ではなぜ、信長は海から攻めなかったのか。それは本願寺側についていた毛利輝元が、村上水軍と手を結んでいたからです。

村上水軍とは日本の海賊のような集団で、高い戦闘能力を誇り信長からも恐れられていました。

これにより信長は、狭い陸側からしか石山本願寺を攻められなかったのです。陸側の防衛に集中できるので、少ない戦力で10年間も耐えることができたのです。

僧侶や民衆は「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」と唱えつつ、本願寺を守り続けました。

 

東西に分裂した本願寺

 

 

10年間にも及ぶ長い戦いを経て、最終的に信長が和解を試みました。
この時、本願寺は開城派抗戦派に分かれ、これが東西分裂の原因となりました。

当時の本願寺のトップである顕如上人は、和解を受け入れる考えでした。

ところが、長男の教如は戦いの続行を求め、抗戦派の主張を譲りませんでした。

トップである顕如は、意見の合わない教如と親子の縁を切り、次男の准如にあとを継がせました。

こうして縁を切られた教如と抗戦派は、東本願寺派となりました。

 

顕如の意思を継いだ准如をはじめとする開城派

→西本願寺

義絶された教如をはじめとする抗戦派

→東本願寺

 

このように本願寺は東西に分かれていきました。

お経や仏具もそれぞれの特徴がありますが、元々は1つだったのです。その後時が経つにつれ、それぞれの特徴を持つようになりました。

 

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