【浄土真宗】和讃の意味:智慧の光明はかりなし

【浄土真宗】和讃の意味:智慧の光明はかりなし

原文

智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものなし
真実明に帰命せよ

智慧の光明はかりなし

「アミダ仏から放たれる智慧の光(光明)は、人間の力では量り知ることができない。」

智慧・・・真理を知り、真実を見抜く頭の働き。この世で起こる現象や物ごとの真実、欲はどうして起こるのか等を見抜く、頭の働きのことを智慧という。

光明・・・仏の身体から発せられる光。智慧の象徴とされ、私たちの煩悩を破る力があるといわれている。

「智慧」と「知恵」の違い

私たちが持っている「知恵」は、生きてきた経験の中で失敗や成功を繰り返し、得た知識です。
仏の「智慧」は、「知恵」では解決できないような問題(命や欲望や感情)の本質を見抜いて迷いを破る物の見方です。

「はかりなし」とは量り知れないということなので、「アミダ仏から放たれる智慧の光(光明)は、人間の力では量り知ることができない。」というふうに読みとれます。

有量の諸相ことごとく

「いつの時代の、どんな国の、どんな人であろうと生きとし生けるものはみんな」

有量・・・量が有る。つまり限りがあるということ。
諸相・・・諸々の相。つまり、それぞれの姿や形をもつもの。

有量の反対は「無量(限りがない)」です。仏の世界は無量の世界(限りがない世界)とされています。
私たちが生きているこの世界は、有量の世界(命に限りがある世界)といわれます。

有量の世界のものは、目に見える「形」を持っているので、諸相と呼ばれます。有量の諸相とは、この世界を生きている私たち(生きとし生けるものすべて)のことです。

「ことごとく」とあるので、「いつの時代の、どんな国の、どんな人であろうと生きとし生けるものはみんな」という一文で、次に続きます。

光暁かぶらぬものなし

「アミダ仏の光に照らされないものはいない」

光暁・・・アミダ仏の光に照らされ、煩悩の闇がはれることを、暁に例えた言葉。

暁とは明け方のことで、夜の暗闇に一筋の朝の光が差し込む時間帯のことです。その明るくなる様を、迷いが破られる様子に例えています。
「かぶらぬものなし」とありますので、「アミダ仏の光に照らされないものはいない」となります。

真実明に帰命せよ

 「真実の智慧の光(アミダ仏)にお任せしましょう。」

真実明・・・明とは「智慧」のこと。真実の智慧(アミダ仏)。

帰命・・・「信じます、任せます、よりどころとします」。インドの言葉であるサンスクリット語である「ナマス」を中国の言葉に変えたものが「帰命」。そして、発音にそのまま漢字を当てたのが「南無」です。

「帰命」「南無」「ナマス」については、こちらの記事もあわせてどうぞ。

【ナマステ】あみだくじの由来

仏の智慧は、人間では分からないところまで見抜いている。煩悩を消すことができない私たちが浄土に生まれるには、アミダ仏に身を任せるしかない。 「真実の智慧を放つアミダ仏にお任せしましょう。」こうなります。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、アミダ仏のことをよく「光」に例えられます。つかめないけど確かにあるもの、遠くまで一瞬で届き、闇を照らす「光」は、アミダ仏の例えとしてとてもしっくりきます。

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