【浄土真宗】和讃の意味:解脱の光輪きはもなし

【浄土真宗】和讃の意味:解脱の光輪きはもなし

原文

解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ

解脱の光輪きはもなし

解脱・・・迷いや苦しみから抜け出し、悟りを開くこと

光輪・・・輪のように広がり、あらゆる方向を照らす光。仏像の後ろにある放射状の線は仏の身体から発せられる後光をあらわしており、煩悩をかき消す力があるといわれている。

「きはもなし」というのは「際がない(際限がない)」ということ。
アミダ仏の光は「ここからこまでを照らす」という際限がなく、どこまでも照らす限りない光。このことから、「無辺光(むへんこう)」とも呼ばれます。

「迷いや苦しみを超え、解脱したアミダ仏が放つ光は、際限なく照らすほど強い」そんな一文です

光触かぶるものはみな

光触・・・仏が放つ光に触れること。

「かぶる」というのも光を受けることです。
物体に光が当たると影ができます。私がアミダ仏の光明に照らされると、私の影の部分に気付かされます。自分は善人だと思っていても、知らない間に罪をおかしているのが人間です。

山口県の詩人である金子みすずさんの「大漁」という詩があります。

朝やけ小やけだ大漁だ

大ばいわしの大漁だ。


はまは祭りのようだけど

海のなかでは何万の

いわしのとむらい

するだろう。

漁師が大量に魚をとって帰ると、街は潤い浜では英雄です。しかし海の中では魚たちが何万という仲間を失い悲しんでいる。
このように相手の立場になって詩を書かれています。

もちろん、漁師が悪者だと言っている訳ではありません。魚を食べる私たちも、命を奪ってしか生きられない衆生(この世の生きとし生けるもの)なのです。果たしてそんな私が浄土へいけるのでしょうか。そのことが次の一文に書いてあります。

今の一文は「仏の光のはたらきを受けるものはみんな・・・」という部分で、次の文に続いています。
 

有無をはなるとのべたまふ

有無・・・これは「有」と「無」の二つの考えを意味しています。
まず「有」ですが、仏教には「諸行無常」「諸法無我」という言葉があり、この世は常に移り変わる、「自分」という実体はない」と考えます。それなのに、「実体は有る」と思い込むことが「有」です。

逆に「無」は、「自分が命を終えると無になる」と考えてしまうことです。アミダ仏は私たちが命を終えた後、「必ず浄土へ生まれさせる」といっているので、「無」とは人間の解釈です。私たちは浄土に生まれた経験がないので、真っ先にそう考えてしまうのも仕方がないかもしれません。この世しか生きたことがない私たちが、浄土のことを想像するのは少し無理がありますね。つまり、仏の目でしか見えない世界があるということです。

前文の「仏の光のはたらきを受けるものはみんな・・・」とくっつけると

アミダ仏の光に照らされると、そのような「有」も「無」も離れる。ということが書かれている一文でした。仏のようなモノの見方ができるようになるということですね。

平等覚に帰命せよ

平等覚・・・平等はみんな同じように優劣をつけずにというそのままの意味で、「覚」は目覚めた(悟った)という意味です。すべてのものを平等に救う方法を悟った「アミダ仏」のことをいっています。

帰命・・・「信じます、任せます、よりどころとします」。インドの言葉であるサンスクリット語である「ナマス」を中国の言葉に変えたものが「帰命」。そして、発音にそのまま漢字を当てたのが「南無」です。

このように最後の一文は「すべてのものを平等に救ってくださるアミダ仏に任せましょう」という言葉で終わります。

4つの文を並べると

アミダ仏の光はどこまでも照らす強い光です
その光に照らされるものは一人残らず
迷いや苦しみを離れる
すべてのものを平等に救ってくださるアミダ仏に帰命しましょう

このようになりました、想像ができない仏の世界はどのような世界なのでしょうか。死んだら無になるというのはちょっと寂しい気もします。仏教に出会って命を終えていく方の顔を見ると、どこか安心しているような表情の方がおられます。アミダ仏のもとへお生まれになったのでしょうか。私も、いつ命を終えるかなんて全く分からない身ですから、日々「ナンマンダブ」(※1)という感謝の念仏とともに生きていきたい、そのようにお味わいさせて頂きました。

※1「ナンマンダブ」・・・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と同じ意味。南無は帰命と同じく「信じます、任せます、よりどころとします」なので「アミダ仏にお任せします」となる。

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