【浄土真宗】和讃の意味:光雲無碍如虚空

【浄土真宗】和讃の意味:光雲無碍如虚空

原文

光雲無碍如虚空
 一切の有碍にさわりなし
 光沢かぶらぬものぞなき
 難思議を帰命せよ
 

光雲無碍如虚空

「光、雲のごとくにして無碍なること虚空のごとし」

無碍(むげ)・・・碍(さまたげ)が無いと書いて(むげ)と読みます。

虚空(こくう)・・・なにもない大空の事です。

ここの一文では「光や雲が、なにもない空を行き交う様子」を描写して、アミダ仏の放つ光にたとえています。
何にもさまたげられることのないアミダ仏の光明は、無碍光とも呼ばれます。

さまたげは「礙」とも書きます。石のようにかたい疑いの心と書いて礙(さまたげ)と読みます。
どのような礙(さまたげ)があろうと、遮られることなく全ての生きとし生けるものに届く強い光なのです。

 一切の有碍にさわりなし

一切(いっさい)・・・すべてのもの
有碍(うげ)・・・碍(さまたげ)のあるもの
さわりなし・・・障り(さわり)なし→障害にならない

私も含む全ての生きとし生けるものは礙があります。アミダ仏の教えを素直に聞けなかったり、「本当に浄土に行けるの?」なんて疑いを持ったり。アミダ仏からすると、そんなことは全く障害にならないということでしょうか。

日々、湧いてくる感情に踊らされ、迷いの世界でうまく生きられずにいる私たちを、そのまま包み込むような頼もしい光ですね。

 光沢かぶらぬものぞなき

光沢・・・アミダ仏の光明
かぶらぬものぞなき・・・浴びないものはいない

アミダ仏の智慧の光明のはたらきをうけないものはいないということですね。

「智慧」とはなんでしょうか。「知恵」とは違いますね。それについてはこちらの記事をご覧ください↓

【浄土真宗】和讃の意味:智慧の光明はかりなし

 難思議を帰命せよ

難思議・・・思議することが難しい。思議とは色々と思いはかり、考えをめぐらせること。

帰命・・・「信じます、任せます、よりどころとします」。インドの言葉であるサンスクリット語である「ナマス」を中国の言葉に変えたものが「帰命」。そして、発音にそのまま漢字を当てたのが「南無」です。

「帰命」「南無」「ナマス」については、こちらの記事もあわせてどうぞ↓

【ナマステ】あみだくじの由来

和讃の締めの部分ですね、前回は「真実明に帰命せよ」で終わりましたが、今回は「難思議」という言葉が出てきました。結論から言うと同じものを指していますが、表現の仕方が違います。

アミダ仏は光の仏様といわれており、呼び名がたくさんあります。その中の一つに「難思光仏」と言うものがあります。先ほどの説明のように、思いはかることが難しい光の仏さまという意味です。仏さまは悟りの世界におられます。それは私たちには想像ができない世界なのです。だからこそ、お任せするしかないんですね。この世の命を終えた後のことは、お医者さんでもお坊さんでもなく仏さまにお任せするしかないのです。

アミダ仏はすべてのものを残さず救うという仏様です。仏像を見てみると、左手は手のひらを上に向けて指で輪っかを作っておられます。これは摂取不捨印といって「捨てることなく全てをすくいとる」という事を表しています。また、実は横から見ると少し前のめりになっています。これは「今すぐに救いにいくぞ」「仏の方から向かっていくぞ」ということを表しています。お寺に行く機会があれば、よく観察して見てみると面白いかもしれません。

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